日本政府がスーダンから邦人を国外退避
4月25日、日本政府は、戦闘が続くアフリカ北東部スーダンの在留邦人51人と外国籍の家族7人の合計59人が退避したことを発表した。
日本時間の24日深夜に、スーダン北東部のポートスーダンから、在留邦人41人とその家族4人の計45人が、自衛隊のC2輸送機で出発し、日本時間25日未明、自衛隊の拠点があるジブチに到着。
これに先立ち、邦人4人とその家族1人が、フランスや国際赤十字の協力でジブチやエチオピアに避難。25日未明には、大使館関係者を含む邦人6人とその家族2人の計8人が、フランスの協力でスーダンの首都ハルツーム郊外の空軍基地から出国したという[i]。
その後日本外務省は27日、新たに日本人4人とその家族1人がカナダ軍の輸送機でジブチに退避したことを明らかにし、スーダンから退避した邦人とその家族の数が計65人になったことを発表した[ii]。
今回の危機は、事前に紛争の兆候が少なかったこと、外国の政府機関や支援団体の本部が置かれる首都ハルツームで一気に戦闘が激化したこと、全国の主要な都市でほぼ同時に戦闘が始まったこと、ハルツーム国際空港が戦闘の影響により早々に使用できなくなったことなど、複数の要因が重なったことから、「戦闘の起きている極めて危険な状況の中で外国人を国外に退避させる」という非常に困難な任務に各国が取り組むことになった。
大統領と副大統領の権力闘争
スーダンでは、アブデルファッタ・アル・ブルハン将軍率いるスーダン国軍と、モハメド・ハムダン・ダガロ指揮下の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」の間で4月15日に戦闘が勃発。両陣営間では、国軍がRSFの解散を要求し、そのメンバーが正規軍に統合されることに関連した対立で、それまでも緊張が高まっていたが、軍事衝突はまず首都ハルツームで発生し、東西南北の主要都市に急速に拡大したと伝えられている[iii]。
両氏は30年間独裁者として国を支配してきたオマル・アル・バシルを追放した2019年のクーデターの後、暫定政府のリーダーとして登場。国際的なシンクタンク、インターナショナル・クライシス・グループのアラン・ボスウェル氏は、この両者の闘争は、「どちらがスーダンを支配するかという純粋な権力闘争」だと述べている[iv]。
スーダン軍事政権の大統領で軍隊のトップをつとめるブルハン将軍は、かつてエジプトの軍事大学で訓練を受けており、同国のシシ大統領とも個人的に近いとされている。スーダン国軍はエジプトの支援を受けており、強力な地上軍と空軍力を誇っている。
国軍が圧倒的に強そうに見えるが、同政権で副大統領をつとめるダガロ中将も負けていない。ダガロ中将は1974年、スーダン周縁部の北ダルフールで、チャド系アラブ人のラクダ飼い遊牧民の一族に生まれた人物で、正式な教育を受けることなく、13歳の時にリビアやチャドとの国境を越えてラクダ売買に従事した貧しい家の出である。
そんなダガロだが、独裁者バシルが自らの身を守るために創設した「ジャンジャウィード旅団」と呼ばれる戦闘部隊の司令官に抜擢されたことから頭角を現した。ダガロは、10年以上に及ぶダルフールでの戦闘で、無差別殺人、レイプ、大量虐殺など悪事の限りを尽くしたと言われており「馬に乗った悪人」などと評された[v]。
バシルは、ダガロの「功績」に報い、彼を2013年に新たに結成されたRSFのトップに任命したという。
ダガロ中将は、アラブ首長国連邦(UAE)とサウジアラビアの支援を受けており、イエメンでフーシ派と戦うサウジ主導の連合軍のために地上部隊をイエメンに派遣している。彼はまた、ロシアとも密接な関係を築いた。米財務省によると、同中将は、スーダンで活動する露民間軍事会社ワグネルとつながりのあるロシア企業と金の違法取引に従事。ワグネルはダガロが支配する金鉱山の警備や、RSFの訓練をしていたとされている[vi]。
つまり、RSFの側も、戦闘経験豊富な戦闘員を多数抱え、資金も潤沢にあるというわけだ。ブルハン将軍もダガロ中将も互いに相手を「犯罪者」「殺人鬼」と非難しており、妥協の余地がないほど対立を強めてしまっているように思われる[vii]。
両陣営共に国中に拠点を構えていることから、内戦は全土に広がり、破滅的な結果を招くことが懸念されている。大統領と副大統領が、それぞれ支配下にある実力組織を使って権力闘争を激化させていることから、この争いは簡単には収まらない可能性がある。
早かった欧米諸国の退避作戦
4月15日に両勢力の衝突が報じられてから一週間くらいが経過して、各国による自国民の救出作戦が始まった。バイデン大統領が作戦の司令を出したのは21日だと伝えられており、ハルツーム空港が使えず、ポートスーダンまでの長く危険な道のりを考慮した結果、米国政府はハルツームの米国大使館まで軍用ヘリコプターMH-47チヌークを飛ばし、大使館に集まった米外交官やその家族たちを直接ヘリで救出する作戦を実施した。
22日午後に50名近い米海軍特殊部隊シールズの隊員を乗せたチヌークがジブチの米軍基地を離陸。ハルツームの地上では、米中央情報局(CIA)の工作部門の要員たちが作戦を支援するための情報収集を実施し、特にヘリコプターを撃墜する能力のある携行型地対空ミサイルなどの脅威を探った。また上空では、105ミリ砲を装備した米空軍のAC-130ガンシップが飛び回り、時速115マイルで飛行するヘリコプターを守るため、必要に応じて火力支援できる態勢をとっていたという[viii]。
3機のヘリコプターは、スーダンの23日深夜に大使館近くの空き地に着陸。米大使館員72名、カナダ人外交官6名、西側諸国の大使館員や国連職員など90名近くが搭乗した。ヘリが着陸してから離陸するまでの時間は約30分。この間、どの武装勢力からも小銃による発砲などの攻撃はなかった。3機のヘリはエチオピアまで飛行し、大使館員等はそこでC-17輸送機に乗り換えてジブチの米軍基地「キャンプ・レモニエ」まで運ばれたという。
ちょうど同じ頃、英国政府も自国民の退避作戦を実施していた。英陸軍特殊部隊SASの精鋭部隊がハルツームに向かう米軍機に同乗しており、米大使館近くに着陸すると、SASの隊員たちは米軍とは別れ、現地の車両を多数入手してハルツーム市内の英国大使館に向かって車を走らせたという[ix]。
英国大使館には、外交官とその家族、また英国が支援を申し出ていた他国の関係者等が集まっていた。英軍のチームは、大使館で子供を含む約30人の退避を求める文民たちと合流し、脱出準備に取り掛かった。
このSASのグループと並行して、英空軍の輸送機2機(C-130ハーキュリーズとA400Mエアバス)が、キプロスの広大な英軍基地アクロティリから離陸。英軍は、仏軍や米軍と連携して、スーダン領内に航空機を飛行させる許可をスーダン軍から取得し、23日の午前1時頃に英空軍輸送機がハルツームの北約30kmにあるワディ・セイドナというスーダンの飛行場に着陸した。これはSASの部隊を乗せた米軍機がハルツームに着陸してから約1時間半後のことだったという。
この後がもっとも危険な段階だったと英スカイニューズは報じている。英外交官たちを乗せた英軍の車両は、ハルツームの英大使館から飛行場まで約30キロの道のりを陸路、複数の検問所を通過して移動する必要があった。もし軍や武装勢力が危害を加えてきた場合、英軍の車列は検問所を「突破」して外交官たちを空港まで連れていく必要があるが、その場合は別の緊急対応部隊が空から火力支援をする準備も整えていたという。
最終的には、戦闘のないまま外交官と家族は飛行場に到着して英空軍の輸送機に乗り込み、キプロスへ飛び立ったという。
このワディ・セイドナ基地は、英軍が最初に使用したのだが、英国はこの最初の退避作戦に使用した後、この基地のコントロールをドイツに移譲。その後ワディ・セイドナは、ドイツやフランスはじめ各国政府の退避作戦のハブとして機能するようになった[x]。
ドイツは24日の時点で、オーストリアやベルギー、それにアフリカの国など20カ国の国民合わせて300人以上を退避させたと発表。フランス政府も同日、フランス人196人を含む欧州16カ国、アフリカ13カ国、日本を含むアジア太平洋地域5か国、北米など合わせて36カ国491名をスーダンから退避させたと発表した[xi]。
首都ハルツームから約30キロ北にあるワディ・セイドナを退避の拠点とした国は、800キロ離れたポートスーダンから退避した国連や日本などと比べて一日早く国外に退避出来ていたことになる。
望まれる今回の退避作戦の徹底的な検証
今回は、退避を希望する邦人を無事に国外退避させることが出来たという点で、退避作戦は成功だったと評価できる。非常に危険の伴う退避オペレーションを、時間の限られた中で計画・調整し、実行した外務省、JICAや防衛省の関係者のご苦労を思うと頭が下がる。
しかし、ハルツームからポートスーダンまでの800キロの陸路移動は非常にリスクが高く、一つ間違えれば大惨事になっていた可能性は十分にある。結果的には成功だったが、危機管理に完璧はないため、どうするのがベストだったのか、関係者は徹底的に今回の作戦を検証し、教訓を導き出し、次に活かすべきである。
公開されている限られた情報からのレビューになるが、いくつか気になった点を列挙したい。
まず事前に今回の紛争の兆候はなかったのか、何か見逃していた情報がなかったのか検証する必要があるだろう。今回退避作戦を日本政府が指示したタイミングは、米政府のそれと比べても決して遅くはなかった。欧米諸国も今回の事態を予測しておらず、軍事衝突が起きることを示す情報は持っていなかったものと思われる。
2月~3月にかけて、軍とRSFの緊張が高まっていたことが伝えられ、両陣営共に軍備増強に動いていたことが報じられていた。しかし3月11日にブルハン将軍とダガロ中将は、事態を緩和するための協定に調印し、ダガロ中将はハルツーム広域から軍を撤退させることに同意し、新たな共同安全保障委員会を設立することにも同意したという。
しかし4月上旬までに新政府樹立のための交渉は行き詰まり、両指導者は、RSFを軍隊に統合するスケジュールや統合された軍隊の指導体制について意見が合わず緊張が高まり、両陣営はメンバーの勧誘や部隊の動員を進めて戦争準備を開始したとされる。4月13日にはRSFの兵士の大部分が北部の町メロエの空軍基地付近に再配置され、軍がRSFの許可のない移動を非難し撤退を求める最後通告を出したという。
ところが国連や米、英、サウジアラビア、UAE等が仲介に入り、事態は沈静化したと思われた2日後に戦闘が勃発した[xii]。この辺りの経緯は再度検証し、入手出来ていた情報を精査して、情報分析において何が足りなかったのかを検討する必要があるだろう。
また、政府機関や外国人が集中する首都の中心部において、国軍に対して直接的な脅威を与える能力のある武装集団がいる場合、そうした武装集団の動向には殊更注意が必要である。戦闘勃発直前にはメンバーの勧誘や部隊移動の動きがみられたはずであり、そうした動向を察知して彼らの能力面の変化をみて警戒レベルを上げる必要があった。
作戦面では、米英の特殊部隊が行ったような救出作戦を実施できる能力が日本には欠落している。あのような敵対環境の中で、現地で情報を収集し、車両や警備を手配し、軍や武装勢力とも交渉し、もし作戦を妨害しようとする脅威が現れた場合には脅威を排除してでも作戦を遂行できるような能力が現在の日本政府には足りない。もちろん現状では法的にも難しいのだが、こうした作戦をしないと邦人を救出できないような場面が将来出てくる可能性が排除できない以上、このような能力を政府として整備しておくべきである。
最後になぜ日本はワディ・セイドナではなくポートスーダンを使う決断を下したのか、今後関係者から情報が出てくる可能性があるが、この点については継続的に情報を追って確認したい。今回の退避計画において、どこで自衛隊機に乗るのかは非常に重要な点だったはずであり、ポートスーダンではなくワディ・セイドナまで自衛隊機を飛ばす案はあったのか、なかったのか。なぜ800キロを陸路移動するというリスキーな案にしたのか、本当にこれ以外に方法はなかったのか等、政府として徹底的に検証し、次の作戦に役立てて欲しい。
[i] 朝日新聞「スーダン邦人ら58人退避」2023年4月26日
[ii] 日本経済新聞「日本人ら5人が新たに退避 スーダン、29日帰国へ」2023年4月28日
[iii] International Crisis Group, “Stopping Sudan’s Descent into Full-Blown Civil War”, April 20, 2023
[iv] Financial Times, “Hemeti, the Sudanese general fighting for absolute control”, April 22, 2023
[v] 同上
[vi] Financial Times, “‘A recipe for conflict’: the rival generals behind Sudan’s power struggle”, April 18, 2023
[vii] Financial Times, “Sudan’s warring generals: rival strongmen signal fight to the end”, April 20, 2023
[viii] The New York Times, “U.S. Pulls Diplomats From Sudan, and an Exodus Begins”, April 23, 2023
[ix] Skynews, “Sudan: How elite team of British troops evacuated UK diplomats from warzone capital”, April 23, 2023
[x] The Guardian, “UK finds itself at back of the queue in Sudan evacuation”, April 25, 2023
[xi] NHK「【スーダン 各国の動き】停戦合意期限を迎え 自国民の退避急ぐ」2023年4月25日
[xii] “Stopping Sudan’s Descent into Full-Blown Civil War”